四国の主なたぬき伝説
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- 喜 左 衛 門 狸 (愛媛県西条市)
- 大気味神社の喜左衛門狸は、神通力のある大狸で、新居浜の小女郎狸、屋島の禿狸とともに四国の大狸として京都・大阪まで名を知られておりました。
喜左衛門は、長福寺の南明和尚のお供をして、よく法事に出かけました。
小僧に化けて後ろから和尚に続く喜左衛門、ついうっかりしっ尾を出していると、「喜左、しっ尾を忘れちゃ、いくまいが」と、注意されたということです。
ある時、喜左衛門は南明和尚に、「今から讃岐の金毘羅様へ行って参ります」と言って寺を飛び出し、神通力にものをいわせて狸道をすっ飛んで行きました。
その速いこと、速いこと、またたく間に金毘羅様にやってきました。
そこには屋島の禿狸( 太三郎狸)が待っていて、早速、腕くらべをやろうということになりました。
そこで、屋島の禿狸は、自分の体の毛を抜いて、ふっと一吹きすると、これは見事、源平数千の軍兵が敵味方に分かれて、ときの声を挙げながら大合戦が始まりました。
喜左衛門は驚いて「さすがは禿狸、なかなかやるわい」と、そのすごい腕前に舌を巻きました。
禿狸は自慢そうな顔で「おい喜左、次はお前の番だ」と迫りました。
ちょっと困った喜左衛門でしたが、そこは神通力の持ち主、三月程あとに、お国入りする紀州の殿様の行列のあることを思い出したので、三月たったら大名行列を見せてやろうと約束しました。
約束の日禿狸は、(喜左衛門の奴、どんな化け方をして俺を驚かすつもりかな)と待っておりますと、なるほど向こうから紀州の殿様の行列が大勢の家来を従えて、下に下にと触れながら物々しく進んできました。
禿狸は、あまりにも見事な本物そっくりの大名行列に驚きましたが、気を取り直して、行列が目の前にきた時、殿様の籠に近寄り、「おい、喜左、うまいぞ、上出来だ。それにしてもよく化けたな」と声を掛けました。
ところが、これは本物の紀州様の行列ですから、警護の侍たちは大変驚いて、無礼者と刀を抜いて斬り掛かってきました。
「こりゃ本物だ。喜左の奴めに一杯食わされた。」
禿狸は、逃げるが勝ちと、しっ尾を巻いて屋島へ逃げ帰りました。
さすがの禿狸も、喜左衛門の知恵には、かなわなかったということです。
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- 小女郎狸(愛媛県新居浜市)
- 「小女郎大明神」として楠木神社にまつられている小女郎狸は、壬生川の喜左衛門狸、屋島の禿狸とともに、三兄弟として、伊予狸族の名門で、昔から一番樟に棲んでいた眷族といわれています。
代々一宮神社の宮司につかえて、可愛がられていた利口な狸でしたが、ある日、つい出来心から初穂の鯛を一匹失敬したことがばれて宮司に叱られ、とうとう古巣の大楠から追放されることになってしまいました。
それから間もなく、長い間棲みなれた一宮の森を去って、当てもなくさまよい歩くうちに、浜辺にでました。
そして、今漕ぎ出そうとする漁船を見つけたので、慈眼寺の和尚に化けて乗り込みました。
その日は、大変鯛がよく釣れるので、鯛にはこりごりの小女郎狸は、じっと目をつむって、「南無鯛散菩薩」と祈っていましたが、足下でピチピチ躍る瀬戸鯛を見ては、空腹の煩悩払うべくもなく、一匹くらいは仏果を得よと、そっと法衣にかくれて盗み食いしているところを、漁師に見つけられ、「この生ぐさ坊主奴」とばかり、櫂をもって一撃をうけた途端に、化けの皮が剥がれ、尻尾を出して、せまい船の中をウロウロして、あわや、水葬礼になるところを、やっとのことで命が助かり、その時小女郎は、前非を悔いて、「このご恩は必ず報います。大阪に着いたら、金の茶釜に化けますから、それを売って鯛の身のしろ金にしてください。」と約束して、漁師にご恩返しをしました。
正直な狸ですね。
こうして、茶釜の約束を果たした小女郎は、美しい娘に化けて、道頓堀や、千日前を見物して暮らすようになりましたが、その後一宮の森に帰り、「諸願成就」の守り神として、信仰を集めています。
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- 太三郎狸(香川県高松市)
- その昔、弘法大師さんが四国八十八ヶ所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたそうです。
のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。
屋島の太三郎狸は佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称されています。
太三郎狸は屋島寺本尊十一面千手観音の御申狸又数多くの善行を積んだため、土地の地主の神として木堂の横に大切に祀られ、四国狸の総大将とあがめられ、その化々方の高尚さと変化妙技は日本一でありました。
なお屋島太三郎狸は一夫一婦の契も固く家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が参拝に訪れます。
別名は「屋島の禿狸」といい、源平合戦の際に矢傷を負った時に平重盛に助けられ平氏に加勢し、平氏滅亡後、屋島を本拠としていました。
かつて見た源平合戦の様子を、術によって見せたといわれるほどの変化術の名手でありました。
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- 金長狸合戦(徳島県小松島市)
- 江戸の終わり、天保年間(1830年〜1844年)、徳島県の小松島・日開野(現小松島市日開野)で染物屋「大和屋」を営む主人が、村人に虐められていたたぬきを助けました。
その直後から大和屋は繁盛し始め、その後店に務める万吉という者にたぬきが憑き、自身の事を語り始めました。
それによると、たぬきは名を「金長」といい、206歳もの長寿で、付近のたぬき達を治める頭株でした。
万吉に憑いた金長は、店を訪れる人々の病を治したり気運を占ったりと大活躍しました。
その後、まだたぬきとしての位を持っていなかった金長は、津田(現徳島市津田町)にいる総大将「六右衛門」のところに修行に出ました。
金長は優秀な成績を収め、念願の正一位を取る手前まで成長しました。
そんな金長を、六右衛門は手放すことを惜しみ、自身の娘の婿養子として迎えようとしましたが、金長は大和屋の主人への義理に加えて、人嫌いで残虐な六右衛門の性格を嫌いこれを断りました。
これを不服に感じた六右衛門は、金長がいずれ敵になると考え、仲間と共に金長に夜襲を行いました。
金長は、一緒に日開野から来ていたたぬき「藤ノ木寺の鷹」と応戦していましたが、金長だけが生き残り、命からがら日開野へ逃げ帰りました。
金長は「藤ノ木寺の鷹」の仇討ちのため、同志を募り金長軍と六右衛門との戦いが繰り広げられました。
戦いは金長軍が勝ち、六右衛門は金長に食い殺されましたが、金長も傷を追い、命を落としました。
大和屋の主人は正一位を得る前に命を落とした金長を憐れみ、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向き、正一位を授かって来たということです。
この戦いの頃、人々が日開野の森へ日暮れに向うと、何かがひしめき合う音が響き、翌朝にはたぬきの足跡も複数残されており、合戦の話しも嘘ではないと驚いたそうです。
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- 隠神刑部(愛媛県松山市)
- 日本三大狸話の一つとして有名な「伊予八百八狸」の物語は、江戸の末期に創作された講談で全国に広まりました。
松山の久万山に住む神通力自在の古狸「隠神刑部」は八百八匹の狸を従え、松山城の守護神として崇敬されていました。
大飢饉が起きた享保十七年(1732年)のころ、城代家老・奥平久兵衛はお家乗っ取りを企て、犬の乳で育って夜目が利く険の達人・後藤小源太の召し抱え、邪魔になる「隠神刑部」と戦わせました。
刑部狸は小源太に、狸退治を思い止めてくれれば、あなたを一生守りますと約束し、心ならずも悪だくみの一味となり、お家騒動に巻き込まれました。
忠臣派は、宇佐八幡から授かった不思議な神杖を持つ豪傑・稲生武太夫を味方にして乗っ取り派を次々に征伐し、刑部狸を久谷・久万山の洞窟に閉じ込めました。
のちに刑部狸は長く松山藩に仕えた功徳に免じて罪を許されて、里人たちと仲良く暮らし、山口霊神に祀られました。